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2013年9月 4日

読書日記「森の力 植物生態学者の理論と実践」(宮脇 昭著、講談社現代新書)

森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書)
宮脇 昭
講談社
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 横浜国立大学名誉教授の  著者は、85歳の現在まで、ポット苗という40年前に発案した植樹法で国内外1700カ所に4000万本もの木を植え続けてきたという驚異の人。

 最近は、東北被災地の再生に取り組む 公益法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」副理事長や 「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」名誉会長として「120歳まで生きて、このプロジェクトの完成を見届けたい」と、人々に勇気を与えずにはおれないエネルギーあふれた活動をしている。

 著者はまず、ボランティアによって植樹された東北被災地の30年後の「ふるさとの森」へと案内してくれる。

 
ひときわ目立つ背の高い樹は、タブノキ。多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」という宮脇理論によって、シラカシ ウラジロガシ アカガシ スダジイも見事に育っている。

 森の中に入ってみる。

 タブノキなどの高木が太陽の光のエネルギーを吸収するため、森の中は薄暗い。
 そのなかでも、 モチノキヤブツバキ シロダモなどの亜高木が育っている。

ヒサカキ アオキヤツデなど、海岸近くでは シャリンバイ ハマヒサカイなどの低木も元気いっぱいだ。トベラの花からは甘い香りが漂ってくる。

 足元には ヤブコウジ テイカカズラ ベニシダイタチシダ ヤブラン ジャノヒゲなどの草本植物が確認できる。


 著者が、長く学んだドイツには「森の下にもう一つの森がある」ということわざがあるという。「一見すると邪魔ものに思える下草や低木などの"下の森"こそが、青々と茂る"上の森"を支えている」という意味だそうだ。

  自然植生の森には、人間の手が入る必要はない。森に生きる微生物や昆虫、動物の循環システムが確立しているからだ。

 しかしこれまで我々は、森林従業者の老齢化と安い輸入ない南洋材におされて、マツ、スギやヒノキの森の下草刈りなどが行われず、森が荒れてしまったと、様々な機会に聞かされてきた。

 著者によると、マツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹林は、第二次大戦後の木材需要に対応するための人工林。その土地になじんだ自然植生でない 代償植生であり「極端な表現を許されるなら、ニセモノの森」である、という。

 「もともと無理をして土地本来の森を伐採してまで客員樹種として植えられてきたスギ、ヒノキ、カラマツ、クロマツ、アカマツなどの針葉樹。その土地に合わないために、下草刈り、枝打ち、間伐などの人間による管理を止めた途端に、 ネザサ、ススキ、ツル植物の クズ ヤマブドウ、などの林縁植物が林内に侵入繁茂します。そのため山は荒れているように見えるのです」

 マツ、スギなどの針葉樹は、成長が早いかわりに自然災害や山火事、松くい虫などの病虫害を受けやすい。最近、大きな問題になっている花粉症も「あまりに多くの針葉樹が大量に植えられたことが影響しているのではないか」と、著者は疑う。

7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。;クリックすると大きな写真になります。" P1080967.JPG;クリックすると大きな写真になります。
7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。 高田松原再生を願う横幕。マツの替わりにタブノキを植える動きも、全国各地で見られるという。
 昨年、東北へボランティアを兼ねた旅に出かけた際、陸前高田市の海岸に植えられていた約7万本の松林が見事に津波に打ち倒された荒漠とした風景を目にした。

 近くの橋には「国営メモリアム公園を高田松原へ」という大きな横幕が張られていた。松林を再生しよう、というのだ。

 著者は「確かに クロマツは海辺の環境に強い。・・・人がしっかり管理し続けられるところでは、必要に応じて今後もマツ、スギ、ヒノキをよいと思います」と言う一方「東日本大震災を経験したいまこそ『守るべきは、人為的な慣習・前例なのか、・・・景観なのか。それともいのちなのか』を考えてみる必要があるのではないでしょうか」と語っている。

 著者は、日本の土地本来の主役である木々が、人々の命を救った例をいくつかあげている。

 昭和51年10月に起きた山形県酒井市の大火で、 酒井家という旧家に屋敷林として植えられていたタブノキ2本が屋敷への延焼を防ぎ、同市では「タブノキ1本、消防車1台」を合言葉に植林運動が続けられている、という。

 対象12年9月の関東大震災の時には、「 旧岩崎別邸の敷地を囲むように植えられていたタブノキ、 シイ カシ類の常用広葉樹が『緑の壁』となって、(逃げ込んだ)人々を火災から守った」

 平成7年1月の阪神大震災の際、著者は熱帯雨林再生調査のためにボルネオにいたが、苦労して神戸に入った。

 長田区にある小さな公園では常緑広葉樹の アラカシの並木が、その裏のアパートへの類焼を食い止めたことを目にした。
 鎮守の森
の調査でもシイノキ、カシノキ、モチノキ、シロダモなどは「葉の一部が焼け落ちても、しっかり生きていた」
  神戸市の依頼で植生調査をしたことがある六甲山の高級住宅地の上にある斜面でも「土地本来の常緑広葉樹のアラカシ、ウラジオガシ、シラカシ、 コジイ、スダジイ、モチノキ、ヤブツバキなどが元気に繁っていた」

img1_04.jpg 平成13年3月の東日本大震災の直後に、なんどか調査に行った。仙台のイオン・多賀城店の近くでは、平成5年に建築廃材を混ぜた幅2,3メートルのマウンド(土手)の上に地元の人と一緒に植えたタブノキ、スダジイ、シラカシ、アラカシ、ウラジオガシ、 ヤマモモなどの木々は「大津波で流されてきた大量の自動車などをしっかり受け止めでもなお倒れていなかった」

 土地本来のホンモノの樹種は、深根性、直根性、つまり根を深く、まっすぐ降ろして、その下にある石などをしっかりつかむため、家事や地震、洪水にもびくともしない。

 著者は、すべて瓦礫と化した被災地に言葉を失ったが「この瓦礫は使える」とも確信した。東北の本来種であるタブノキなどを植樹すれば、深く根を降ろし、埋めてあった瓦礫をしっかりつかんで、大津波も防いでくれる。それが、冒頭に著者が30年後の世界として案内してくれた"自然植生の森"なのだ。

 海岸などに瓦礫を混ぜたマウンド(土堤)をつくり、ボランティアの人々が拾い集めたドングリで育てたポット苗を植林する。「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」による小さな森が、こうして東北各地で少しずつ育ち始めている。



2012年10月13日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・上


 岩手県大船渡市の港近く。「大商人橋」のバス停を降りて10分弱のホテルは、津波で家屋が流されてコンクリートの土台だけが残る空き地にポツリと建っていた。
 昨年末に営業を再開したが、敷地周りの地盤沈下した商業地に大潮の海水が満ち、どこが入り口かさえ分かりにくい。

 ホテルの前に、盛り土をして急ごしらえで舗装された狭い2車線が走っており、その両脇はかってはにぎやかな商店街だったらしい。折れて数十センチだけ残された茶色の外灯が数メートル置きに残されている。根元に「茶屋前商店街」と刻まれていた。
 南側にある須崎川沿いの桜並木も、太い根元が無残に折れて残されている。近くに再建された寿司店の壁に、見事な桜並木を囲むように建つ家屋や商店の写真の額が飾ってあった。

 新築して営業を始めた飲食店がポツリ、ポツリと3軒ほど。それに、16軒の仮設屋台村、スーパーストアとコインランドリー、ちょっと離れてコンビニが1軒。仮設の商店街は、スーパーの再開で野菜などが売れなくなった、と聞いた。

 瓦礫は港沿いの2次処理場にほとんど移されたが、大船渡の下町にはまだ、復興にはほど遠い荒ばくとした風景が広がっている。

 10月1日の朝。ボランティア行にご一緒させてもらうことになったカトリック夙川教会(兵庫県西宮市)の一行4人(リーダーの河野さんと、水口さん、谷垣さん、野口さんの女性3人=年齢不詳につき順不同)と、教会バザーなどで販売する産地直送海産物探しを兼ねて、隣の陸前高田市に出かけた。

 巧みなドライブさばきを見せる水口さんがナビで設定した「陸前高田市市街地中心」には、だだっ広いコンクリート土台と、窓ガラスが吹き飛んだ鉄筋建物だけが残っていた。大船渡市の何倍もの広さに津波のつめあとが広がっている。

 白い建物のわきで青いシートを広げ、書類を乾かしている十人近くのマスク姿の男女がいた。ここは元の市役所。11月から取り壊しにかかり、跡地の利用は決まっていない、という。

 周辺では、大船渡でほぼ終わっている瓦礫の2次処理のためのクレーン起重機十数台が、いまだにフル活動している。

 枯れた1本松で有名になった高田松原の近くに特産品を売る仮設商店があるというので、ナビも駆使して探し回ったが、見つからない。

 「通行禁止」の綱を乗り越え、歩き回って、高田松原の"跡地"だけがやっと見つけた。少しだけ残された砂浜に枯れた松の切り株が十本近く残っているだけのすさまじい風景だ。

 「1本松のことばかりマスコミは書くけれど、あの2キロにわたる見事な砂浜がさらわれたことを、なぜ書かないのか・・・」。大船渡の寿司屋の亭主が嘆いていたのを思いだした。

 翌日、宮城県 気仙沼市に仮設店舗に鮮魚店などが集まったさかなの市場「さかなの駅」があると聞き、再度、産地直送海産物探しに出かけた。ここでしか売られていないという「サメの心臓」(別名・モウカの星)もあるらしい。

 街に入り、県道210号線と34号線が交差する場所でギョッとする風景にぶつかった。 巨大な船が、赤さびた船底を丸出しにして打ち上げられている。約60メートル、330トンもの巨大な巻き網漁船。船腹には「第十八共徳丸」とあった。
 気仙沼港から津波に流され、家屋をこわし、人をなぎ倒して北へ500メートルも流されたのだ。

 船体は、片側3本の鉄骨で支えられ、船底横にお地蔵さんの像と花が飾られ、手を合わせる人が絶えない。
 近くの保育園の保母さんによると、子供たちは、この船のことを「ころしぶね」と呼ぶ。通園バスで横を通る時に PTSD(心的外傷後ストレス障害) の症状を見せる園児もいる、という。この船を解体するのかどうかは、まだ決まっていない。

 6日に同行4人と別れ、学生時代に中学校の先生をしていた先輩を訪ねたことのある旧・ 田老町 (現在は宮古市に合併)まで、バスを乗り継いで行った。

 このブログでもふれたことがある 吉村昭の「三陸海岸大津波」にもくわしいいが、ここには、過去の津波の経験を生かし「万里の長城」の異名を持つ高さ10メートルの大防潮堤を築かれた。チリ地震津波でも被害が軽微だったことで有名になった。

 しかし、今回の地震では、津波は場所によっては高さ50メートルも越え、町は壊滅した。

 一部破壊された大堤防の上に立つと、右に田老の港と漁港、左に壊滅した町がほぼ等分に広がる。

 山が、意外に近く見える。「堤防に頼らず、まず山に逃げていたら・・・」。なんとも、せつない思いが胸を衝いた。

 「陸前高田市震災復興計画~『海と緑と太陽との共生・海浜新都市の創造』~」  陸前高田市のホームページに載っている、夢いっぱいの復興計画だ。三陸海岸各市も、同様のりっぱな復興計画をそろえている。

 しかし、防潮堤1つを取っても、県や各市、住民や漁業者の間で議論が絶えず、かんじんの高さがなかなか決まらないらしい。

 大船渡市は、比較的山に近いが、復興住宅の高台建設を巡って、市と民間の山林所有者で価格交渉が難航している、という。

 大船渡市立末崎小学校にある仮設住宅の支援員をしている永井さん(65)は、自宅再建はあきらめ、復興住宅に入るつもりだ。
 「いつ入れるやら、このままだと仮設暮らしが後5年、いやそれ以上・・・」

 たった2日間の出会いだったが、いつも明るく接してくれた永井さんの目が、少し遠くを見ているようだった。

現地の写真集
JR大船渡線・大船渡駅跡;クリックすると大きな写真になります 盛り土をした車道;クリックすると大きな写真になります 仮設の「大船渡屋台村」の朝。;クリックすると大きな写真になります さびついた大船渡線のレール;クリックすると大きな写真になります
JR大船渡線・大船渡駅跡。なにもない駅前広場は、タクシーの待機場になっていた。 盛り土をした車道。左の水中に歩道用の白いラインが見える。 仮設の「大船渡屋台村」の朝。 さびついた大船渡線のレール。バス専用道路にする話しがあるが・・
「茶屋前商店街」;クリックすると大きな写真になります 瓦礫処理;クリックすると大きな写真になります 旧陸前高田市役所;クリックすると大きな写真になります 無残な高田松原跡;クリックすると大きな写真になります
商業地の真ん中でにぎわっていた「茶屋前商店街」 陸前高田市の中心で続く瓦礫処理 旧陸前高田市役所。青いシートの下で書類の処理が続く 無残な高田松原跡。近くの橋に「国営メモリアル公園を高田松原へ」 と書かれた横幕が張られていた。
陸上を走った巻き網漁船;クリックすると大きな写真になります 旧田老町の大堤防;クリックすると大きな写真になります
気仙沼港から500メートルも陸上を走った巻き網漁船 旧田老町の大堤防に打ちつけられた瓦礫の処理は終わったが・・